1945年(昭和20年)3月10日未明、わずか2時間半余りの間に、東京一帯が焼け野原になる惨劇が起きました。「東京大空襲」です。“スーパーフォートレス”という呼称でも有名なアメリカの爆撃機「B-29」により、現在の墨田区、江東区を中心に東京の市街地の約50%が焼失したのです。関東大震災から22年、途方もない苦労と費用をかけてようやく復興した東京は、この空襲により、再びその大部分を失うこととなりました。
今度こそ再起不能に思えた東京でしたが、不死鳥のごとく再び息を吹き返します。戦後の東京が、大都市として復活するまでに、一体どんな道のりがあったのでしょうか。
再スタートした大都市・東京への復興
約41㎢を焼き尽くし、一夜にして10万人を超える犠牲者を出したといわれる東京大空襲。この空襲から約5ヵ月後の8月15日、玉音放送が流れます。日本は敗戦という形で戦争を終えたのです。しかしそれは、人々にとって新たな戦いの始まりに過ぎませんでした。多くを失った“東京を復興”させるための戦いです。

1945年(昭和20年)12月、「戦災地復興計画基本方針」が策定され、翌年9月には、「特別都市計画法」が公布されました。徳川家康が成し遂げた江戸幕府以来の都市基盤をベースに、新たな首都・東京をつくるための都市計画です。この計画は、戦前から表面化していた数々の都市問題を解決する機会としても捉えられていました。
東京の復興事業を指揮したのは、後の東京都建設局都市計画課長、建設局長を歴任する石川栄耀です。新宿、池袋といった戦前からの中心地を最優先に再開発は進められていきます。
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各地で進む再開発と闇市の登場
東京の心臓部でもある新宿では、終戦わずか4日後から復興計画がスタートします。
民間主導の復興事業により、映画館、演芸場、ダンスホールから成る興行街を中心とした計画が立てられました。しかし、そのほとんどは頓挫することに。資源も資金もない状況での復興計画は、非常に厳しいものだったのです。
そんな中で、1956年(昭和31年)に誕生したのが「新宿コマ・スタジアム(後の新宿コマ劇場)」です。演劇などの興行が行なわれ、娯楽の聖地として、大いににぎわいました。現在、跡地にはゴジラが顔をのぞかせる「新宿東宝ビル」が立ち、中には映画館やホテル、飲食店などが入り、令和となった今も変わらず多くの人を集めています。

流行の発信地であった銀座も空爆の対象でした。戦前、銀座の裏路地は住宅街で、一万人以上の人々が暮らしていましたが、空襲により銀座一丁目から銀座六丁目にかけて一面が焼け野原に。銀座の人口は激減してしまいます。
戦後、空地となった場所には、住宅の代わりに飲食店が並ぶようになりました。裏路地にはバーやクラブが次々オープン。銀座が「住む街」から「社交の場」へと変わったのはこの時です。
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空襲で多くの地域が壊滅的なダメージを受けましたが、中には被害の少ない地域もありました。その一つが赤煉瓦の駅舎が美しい東京駅のある丸の内です。一説には、米軍が戦後の日本統治のため、意図して丸の内には爆弾を落とさなかったといわれています。1952年(昭和27年)に、新丸の内ビルヂング(現、新丸の内ビルディング)が竣工。床面積は昭和初期東洋一だった丸の内ビルヂング(現、丸の内ビルディング)を上回る6万5,488㎡で、日本経済の本格的な立て直しを象徴する建物でもありました。
そして、戦後の東京を語る上で欠かせないのが闇市の存在でしょう。米などの物資を非合法に販売する市場が東京の至るところで発生しました。食糧危機に悩まされていた人々は、物資を求めて闇市へと向かったのです。青空の下始まった闇市は、簡易なテントから始まり、やがて長屋形式のバラックへと姿を変えていきます。
その後、再開発に伴い闇市は姿を消していきますが、新宿の思い出横丁や、ゴールデン街、渋谷ののんべい横丁などは、当時の闇市の雰囲気を今に残しています。
急速に変化した生活様式
終戦直後は、人口がそれまでの3分の1にまで減った東京ですが、その後、みるみる人口は増え、1949年(昭和24年)にはひと月で約11万人以上増えたといいます。これは、疎開者や引揚者(敗戦によって外国へ移住していた日本人)が帰ってきたことがその一因です。また、集団就職で地方から大勢の人々が押し寄せてきたことも背景にあります。
そうした急激な人口増加を受け止めるため出現したのが集合住宅、団地です。団地での生活は、戦前までの長屋文化とは大きく異なるものでした。耐震性に優れた鉄骨造りで、風呂もトイレも世帯ごとに備わっています。ちゃぶ台からテーブルに変わり、椅子に座る家庭が増えていきました。高度経済成長の波に乗った日本では、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」と呼ばれ、人々の憧れとなったのです。
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東京オリンピック招致で加速する復興
そしてついに、1956(昭和31年)に発表された経済白書に、「もはや戦後ではない」という文章が記載されました。復興の時代の終了が宣言されたのです。その勢いに乗るかのごとく、1959年(昭和34年)には東京がオリンピックの開催地に選ばれます。この出来事は、東京の再開発を加速させました。
オリンピックに向け、本格的な道路整備が始まります。高速道路が作られ、日本の自動車時代の幕が開きました。交通網の整備の中でも政府が特に推し進めたのが、東海道新幹線の開通です。時速200㎞の列車を走らせるため、線路工事は急ピッチで進められました。

そして、世界初の高速鉄道である東海道新幹線が開通した9日後、東京オリンピックが開幕されたのです。かつて、空襲に襲われ、焼け野原へと変貌した東京はそこにはありませんでした。復興した東京を、世界中の人々の目に焼き付けたのです。敗戦からたった20年後のことです。
東京が歩んできた道のりは、決してたやすいものではありませんでした。しかし、さまざまな障害を乗り越えたことが、東京を世界有数の大都市に成長させてくれたと言っても過言ではありません。
2020年(令和2年)には、再びの東京オリンピックが控えています。“おもてなしの国”日本、そして「TOKYO」という都市は、これから先もずっと休むことなく成長を続けていくことでしょう。
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