はっぴを着て大きな掛け声を上げながら神輿を担ぎ、行列を作りながら順路を渡御する。日本にはそんな伝統的な文化「祭り」があります。そんな長い歴史に裏打ちされた厳格な儀礼と対照的に、そのすぐ横で、焼きそばやフランクフルト、金魚すくいなどバラエティに富んだ屋台が立ち並ぶどこか懐かしく温かい行事。静と動が共存しているかのような不思議な空間に、心躍らせた少年少女時代。大人になった今では、また違った世界が見えてくるのではないでしょうか。
日本各地で開催される祭りの中でも、東京の「神田祭」、大阪の「天神祭」、京都の「祇園祭」は「日本三大祭り」と呼ばれ、全国的にも広く長く愛され続けています。
今回は、そんな「日本三大祭り」の中でも、“夏の風物詩”として有名な京都の「祇園祭」をご紹介します。
祇園祭の始まりと厄除けの粽
祇園祭のスタート地点となるのが“祇園さん”として親しまれている八坂神社。明治政府による神仏分離政策が行なわれるまで、八坂神社の元の祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」が祇園精舎の守り神であったため、祇園社や祇園神社と呼ばれていたことが“祇園さん”の由来です。その牛頭天王にはいくつかの伝説がありますが、中でも次の逸話は祇園祭に関係のあるものです。

ある日旅をしていた牛頭天王は、日が暮れたので宿を借りようとしました。まず裕福な巨旦将来(こたんしょうらい)の家を訪れましたが、断られてしまいます。次にその兄である蘇民将来(そみんしょうらい)の家を訪れると、貧しいにも関わらず厚くもてなされたそうです。
数年後に牛頭天王は再びその地を訪れ、あの時、宿を貸してくれなかった巨旦将来一族を滅ぼしましたが、その中にいた蘇民将来の娘だけは、あらかじめ牛頭天王に教えてもらっていた目印の「粽(ちまき、茅の輪)」をつけていたため、殺されずに済んだのです。
現在の祇園祭の宵山において、各山鉾町から厄除けの御守りとして売られている粽に「蘇民将来之子孫也」と記されたお札が付されているのは、この逸話に由来するものです。
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粽と聞くと多くの方は、おこわを包んだ食べ物の「ちまき」を思い浮かべるかもしれません。祇園祭でいう粽は厄除けの御守りのこと。その名の通り、藁を茅(ち)という草でぐるぐると巻いて作られていることから“茅巻き”(=粽)と呼ばれるようになりました。山鉾によって長さや大きさが違い、祇園祭の定番アイテムとなっています。

川端康成の小説『古都』にも記述があるように、かつては街を練り歩く山鉾(やまぼこ。祭礼の際に引く山車の一種)巡行の際に、山鉾から直接粽が配られていましたが、観光客の増加に伴い、安全性を確保するために現在では山鉾から撒かれることはなくなりました。この粽は、次の祇園祭までの1年間、玄関の軒下の見やすいところに飾るのが一般的です。
ちなみに、毎年山鉾巡行の順番がくじで決められるのに対し、鉾頭に大長刀を掲げた長刀鉾は“くじとらず”と呼ばれ、その名の通りくじを取らずに決まって巡行の先頭を切ります。この長刀鉾の粽は疾病除けのご利益があるとされ、販売開始から早々に売り切れしまうほど数ある粽の中でも特に人気で貴重なアイテムです。
昔の人々にとって、疫病や自然災害といった災いは、死者の怨霊や異国から来た疫神の祟りと考えられていました。先の牛頭天王が宿を貸してくれなかった巨旦将来を後日滅ぼしたという逸話は、そんな人々の恐れから、神の祟りを下敷きに生まれたものでしょう。
そこで疫病や災害を避けるために、怨霊や厄神をもてなし、鎮めて送り出す「御霊会」が平安時代に行なわれるようになりました。やがて災いをもたらす怨霊や厄神を、強い霊威をもつ神として神社などであがめるようになっていったと考えられています。
祇園祭もこうした御霊会の一つから始まったとされています。その起源は869年(貞観11年)や970年(天禄元年)など諸説ありますが、いずれにせよ平安時代から現在に至るまで1000年以上も続いています。
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1ヵ月続く祇園祭のスケジュール
祭礼の期間が長いことは祇園祭ならではの特徴の一つでしょう。毎年7月1日の「吉符入(きっぷいり)」から始まり、31日の疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしさい)」まで続きます。1カ月間たっぷりかけて、八坂神社を信仰する氏子が住む氏子区域では毎日のように神事や行事が執り行なわれます。
1日の「吉符入り」とは、祭りで使われる山と鉾を保存している各山鉾町で祭の無事を祈願する神事です。吉符入りが済んだ山鉾町の会所の2階ではこの日から祇園囃子の練習が始まり、囃子の音が風に乗って、祭りの始まりを知らせるかのように街に響き渡ります。
10日は神様が乗る神輿をお清めする「神輿洗い」が四条大橋で行なわれます。13日には後日の山鉾巡行で長刀鉾に乗ることになる稚児が、お供を従えながら白馬に乗って八坂神社に参詣する「長刀鉾稚児社参」が行なわれ、14日には山鉾巡行を控えた山鉾の飾り付けが始まります。
それに合わせて各山鉾町では提灯が将棋の駒の形に灯されます。京町家で通りに面した部屋に屏風などが飾られる「宵山」は、観光客にも人気の行事の一つです。

そして17日。朝9時に各山鉾町から集まった山鉾が四条烏丸から出発し、河原町通や御池通などを巡ります。夕刻になってようやく3基の神輿が八坂神社を出立。氏子区域を巡った後、四条寺町の御旅所(おたびどころ)に収められます。
この17日の山鉾巡行を前祭(さきまつり)といい、神輿が八坂神社から御旅所までやってくることを神幸祭(しんこうさい)と呼びます。一方、24日には神輿が八坂神社へ帰る前に烏丸御池から山鉾巡行(後祭、あとまつり)が行なわれます。そして夕刻からが神輿が八坂神社へ戻る還幸祭(かんこうさい)となります。前祭と後祭の山鉾巡行は、神輿が巡る前の氏子区域をお清めするという意味があるのです。
このように八坂神社に祀られた神をもてなし、鎮めるための神事や行事が1カ月間かけて執り行なわれるのが祇園祭です。特徴的なのは、神輿は神社が用意するのに対して、山鉾は氏子たちが用意することです。
貴重な美術品や装飾によって豪華絢爛に飾られた山鉾は“動く美術館”とも称されます。このような装飾の理由は、氏子区域のお清めの他に、山鉾に連なって巡行する囃子方や稚児、踊り手らとともに、「神をもてなす、歓待する」という意味もあるためです。
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氏子が主役になれる“夏の風物詩”
実は初期の頃の祇園祭(当時は祇園会)には山鉾はなく、山鉾は14世紀末から15世紀初頭の室町時代に誕生したようです。芸能の達者な舞手が車の付いた舞台(現在の鉾のようなもの)の上で舞を披露しながら巡行したのが始まりだともいわれています。
いずれにせよ、初期の頃はまだ神社や貴族たちが祇園祭(祇園会)の担い手の中心で、氏子たちの渡物(祭礼などの山車や行列などのこと)は祭の中心ではありませんでした。しかし応仁の乱(1467〜1478年)で貴族が没落し、京都が焼け野原になった後に、いち早く山鉾を建てて祇園祭を再開しようとしたのが氏子たちだと伝えられています。
細かく見ていけば、宵山の始まりは18世紀前半だったり、花笠を被る人々が巡り歩く花笠巡行は1966年(昭和41年)だったりと、比較的新しい行事です。他にもさまざまありますが、変わらずに受け継がれてきた部分と、時代に合わせて変化してきた部分を混在させながら、京都の人々が守り続けているのが祇園祭。京都に暑い夏を告げる伝統の風物詩です。
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