日本の江戸から世界の東京
へ 時代を変えた「明治維
新」 街の歴史と発展を追
う!
日本の江戸から世界の東京へ
時代を変えた「明治維新」
街の歴史と発展を追う!

2019.03.29

徳川家康の築いた江戸幕府より始まった「江戸」という街。さまざまな歴史の転換期を経て、現在の「東京」という大都市へと成長を続けてきました。数ある転換期の中でも、最も大きなきっかけとなったのが「明治維新」です。

江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、神奈川県の浦賀にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が黒船に乗って来航。人々に大きな衝撃を与えました。この出来事から数え、1867年(慶応3年)、徳川慶喜が明治天皇に政権を返上した大政奉還までの15年間の間に明治維新は起こりました。

明治維新によって、700年続いた武家政権が終わりを告げ、西洋の文化が流入したことで人々の暮らしは一変します。東京の内部構造を確立した「革命の時代」ともいえる明治時代。当時、どのようにして街づくりが行なわれていたのか、その歴史に迫ってみましょう。

武家政権の終結、将軍から天皇へ

江戸時代末期、度重なる内乱の末、700年以上続いた武家政権の幕が下ろされます。そして誕生したのが、明治新政府です。将軍が日本を支配した武家政権から、天皇が新政をとる時代へと転換したのです。

武家政権の終わりを告げた黒船来航。欧米文化の流入は当時の人々に大きなカルチャーショックを与えた

これをきっかけに日本の首都は京都から江戸へと移され、同時に名前も「東京」と改められます。この出来事は東京奠都(とうきょうてんと)と呼ばれ、かつての江戸城は東京城へと名前が変化。世界に誇る大都市・東京が始まったのです。ちなみにこの東京城とは現在の皇居のことです。

新政府は、新しい国づくりの基本として「欧化政策」を掲げ、東京を先進欧米諸国のような近代国家にすることを目指しました。

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しかし、新時代のスタートを切ったものの、当時の東京の状況は、悲惨なものでした。というのも、かつて数十万の人口を抱える大都市だった江戸は、幕末の戦によってひどく荒れ果てていました。都市の約70%を占めた旧武家地は荒廃し、雑草が生い茂るというありさまだったのです。

政府は一旦、荒れ地を開墾して、茶畑や桑畑にすることを奨励しましたが、場当たり的な政策が続くはずもなく、たった2年で廃止されます。新しい時代を築くためには、抜本的な改革が必要だったのです。

そこで1870年(明治3年)、先進国の国情視察のため、岩倉使節団が派遣されます。公家の岩倉具視を中心に、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名が約2年に渡り、アメリカやイギリスなど14ヵ国を巡り、近代国家の技術や文化を学びます。この視察は、東京の近代都市化に多大なる影響をもたらしたといわれています。

近代都市化によって変化した人々の生活

「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」。そう、文明開化の始まりです。

西洋の知識や技術は、すでに幕末の開港期から日本に伝わっていましたが、明治時代は、政府主導で積極的に文化が取り入れられた背景がありました。岩倉使節団の帰国後、大久保利通らを中心とする開明派政府首脳は、先進欧米諸国と同等の国力を持つ“近代国家建設”をスローガンに、西洋の制度や技術の輸入に、より一層注力しました。

鉄道、郵便、電信、電話などの西洋の交通・通信手段が導入され、人や物資・情報の流れは格段に速くなり、その量も増していきます。衣服や住宅、文学や演劇など、生活や文化の面にも欧米文化の導入が推し進められました。

街にはガス灯がともり、道には馬車が走ります。着物から洋服姿になり、ちょんまげは切り落とされ、ザンギリ頭がブームに。すると街の髪結い床も、西洋の理髪術を習得し、理髪店へと変貌し繁盛するようになったのです。また、外国の肉食文化が伝わったことで、牛鍋屋が大繁盛した話も有名です。

欧米の文化をふんだんに取り入れた文明開化の動きは、瞬く間に人々の生活を一変させました。

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文明開化のシンボル・銀座煉瓦街

街には近代国家にふさわしい建築物も、次々に建設されていきました。築地に外国人居留地が置かれると、商社をはじめ、公使館、領事館、教会、ミッションスクールなどの洋風建築物が建ち並びます。

なかでも1868年(明治元年)に完成した築地ホテル館は、連日多くの見物客が訪れる東京随一の観光スポットでした。江戸大工の棟梁・清水喜助によって造られたこのホテルは、外観は土蔵のようななまこ壁、屋根の上には鐘楼のような塔が立ち、洋風とも和風ともつかない奇抜なデザインだったといいます。

かつての「銀座煉瓦街」を今に伝える「煉瓦銀座之碑」(東京都京橋)。文明開化の象徴ともいえるガス灯が温かく灯る

しかし、1872年(明治5年)に、築地から京橋、銀座一帯を焼き尽くした大火によって、築地ホテル館は焼失します。これをきっかけに、明治政府は東京を欧米並みの不燃都市に改造することに決めました。この構想から生まれたのが「銀座煉瓦街」。設計を担当したのは、イギリス人のトーマス=J=ウォートルスです。

もとは六間(約11m)しかなかった道幅は十五間(約27m)の大通りに。中央八間は馬車道、左右は煉瓦や石敷きの歩道へと代わり、ガス灯も設置されました。建物は煉瓦と石を使った2階建て長屋式で、アーケードのついたジョージアン様式で統一され、翌年には西洋を模した街区が姿を現しました。ウィンドウディスプレイなどの近代商法が根付き、思潮をリードする新聞社や出版社が次々に集まったことも手伝って、銀座の街は文明開化のシンボルになったのです。

【戸数が増えて収益増、それでも入居者の満足度が向上する理由】

さらに明治時代は、貨幣価値が大きく変わった時代でもあります。1871年(明治4年)には江戸時代の両、分、朱に変わり、円、銭、厘という新しい貨幣単位が使われるようになりました。為替金融業者の三井組は、早くから近代的な銀行の創設を意図し、同年に日本橋兜町に三井ハウスを建てます。手掛けたのは、築地ホテル館同様、清水喜助です。

和洋折衷の5階建てで、寺院のような唐破風つきの大屋根やバルコニーなど、そのデザインは当時の人々を大いに驚かせました。この三井ハウスは、完成と同時に政府に譲られ、第一国立銀行と名称を変更します。これを機に、その後も新富座、ニコライ堂、鹿鳴館など、近代的かつ魅力的な建物が東京のいたるところに誕生します。

文化の入り乱れる大転換期・明治維新

明治の東京が近代都市と呼ばれるようになるまで、実に10年以上の月日を要しました。一方で、下町の路地裏では、江戸時代とさほど変わらない生活を営む庶民たちの暮らしも残っていたといいます。

日本独自の文化と欧米の文化、それぞれが入り乱れた明治維新。今日、私たちが住む東京の街の礎は、こうした激動の時代を経て築かれてきたのです。

※2019年6月17日、最新の情報に合わせて加筆修正しています

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