徳川家康が築いた首都・東
京 民の暮らしやすさを考
えた大江戸の「街づくり」
徳川家康が築いた首都・東京
民の暮らしやすさを考えた
大江戸の「街づくり」

2019.03.14

日本の首都・東京。推定人口1,400万人を超えるこの街は、ビジネス、文化、経済の中心地として、国内のみならず世界的に重要な都市の一つに数えられています。

しかし、さかのぼること400年前の江戸時代前期。現在東京がある場所には、まったく別の風景が広がっていました。江戸湾(現在の東京湾)が深く食い込み、葦の茂る湿地帯が多くの面積を占めるその土地は、まさに“水浸し”の地域だったのです。

そんな不毛の地を切り開き、後に大都市となる江戸を築いたのが徳川家康でした。なぜ家康は、地盤のゆるい軟弱な土地を、日本の中枢になる都へと発展させることができたのでしょうか。その歴史に迫ってみましょう。

豊臣秀吉から押し付けられた江戸の地

実は、江戸を治めることになったのは、豊臣秀吉から“押し付けられる”ように命じられたことがきっかけでした。

1590年(天正18年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉と共に小田原城を攻めていたときのことです。秀吉から「この城が落ちたら関東の地を与えよう。その代わりに、今お前が治めている他の領地と交換してもらう」といわれます。そうして家康にあてがわれたのが江戸だったのです。

不安がる家臣とその家族たちと共に、家康は江戸へと向かいます。そこで初めて、葦の茂る水浸しの土地を目にします。それどころか、家康の拠点となる江戸城さえ、荒れ果てた古城でした。

家臣たちから城の修繕を勧められますが、家康はこれを断ります。城よりも、家臣たちの住まいの確保を優先したのです。軟弱な土地の中でも、比較的地盤がしっかりした場所を見つけ出し、そこを家臣たちの居住地域にしました。

敏腕デベロッパー・徳川家康の功績

こうして半ば強制的に家康が引き継ぐことになった、荒れ放題の江戸の地。まともに生活するための開発にあたり、速やかに解決しなければならない問題がありました。飲み水の確保です。海が近い江戸の街は、井戸を掘っても真水が出ず、家臣たちの飲み水が足りなかったのです。

そこで家康は、家臣の大久保忠行に、江戸の上水工事を命じます。大久保は江戸の中の水源でも特に質の良い「井の頭池」に目を付け、この池から水路を造り、江戸城に水が流れるようにしました。これが、江戸に初めて造られた水道です。家康の期待に応えるため、大久保はこの大工事をわずか3ヵ月で完成させたといわれています。

今もなお水が湧き続ける井の頭池の水源(東京都武蔵野市)。家康が茶を点てる時に使ったことから「お茶の水」とも呼ばれる

飲み水を確保した家康は、江戸に町人を呼び寄せることを決めます。江戸を武士中心の政治都市にすることが目的だった家康にとって、武士の生活の面倒を見てくれる商人や職人の存在は、必要不可欠だったのです。ところが、全国各地に移住者募集を呼び掛けても、ほとんど人が集まりません。今でこそ人口集中が進む東京ですが、このときはまだ、新興地域である江戸に対するイメージがあまり良くなかったからです。

そこで家康は、人が住みやすい街をアピールするため、宅地の整備を始めます。

現在の大手町や丸の内がある地域に住宅街を作り、そこへ各地域から医師などの生活に欠かせない役割を持つ人を呼び寄せ、街のイメージアップをはかりました。

家康の努力が功を奏し、江戸には徐々に人が集まるようになり、家賃の安い集合住宅や裏長屋が誕生します。そこでは6畳程度の部屋に各家族が住み、住宅やトイレ、ごみ収集所などを共同で使っていました。江戸ならではの独自の住宅文化です。公衆浴場である銭湯が生まれたのもこの時代だったといわれています。

そうして連帯意識が養われていった住人たちは、やがて“江戸っ子”と呼ばれるようになっていきます。江戸では彼ら庶民が担い手となり、地域特有の文化が花開いていったわけですが、中でも象徴的なのが「食」。人が増えると、食文化も発展していきます。当時江戸には、単身で働きに出てきている男性がたくさんいました。彼らが好んで食べたのが「寿司」や「天ぷら」といった、まさに“江戸っ子”の食事。佃島の漁師たちが発明した「佃煮」も、江戸の名物になりました。

天下の実権を握った徳川家康

江戸の街づくりが軌道に乗ってきた頃、豊臣秀吉が死去します。関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は征夷大将軍に任命され、天下の実権を握ることになりました。

このとき、幕府をどこで開くかが家臣たちの間で議論になります。秀吉が統治していた大阪に幕府を置くべきという意見もありましたが、家康は「江戸なら大阪に代わり、日本の中心地になれる」という可能性に賭けたのです。江戸の街づくり“第2章”の幕開けです。

天守閣は現存しないものの、江戸城を構成する数々の建築物を見ることができる。画像は皇居前広場につながる桜田門

征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康は、幕府の誕生と共に全国の大名を江戸に集めます。しかし、大名とその家臣や家族の数はおよそ数万人。これを受け入れるとなれば、また広大な土地が必要です。そこで家康は、江戸城の眼下にある日比谷入江に目を付けました。現在の駿河台にある神田山を切り崩し、その土砂で埋め立てれば、敷地の問題が解決すると踏んだのです。

その後家康は、1601年(慶長6年)「天下普請(てんかぶしん)」を発令します。これは、幕府が土木工事を大名に命じ、従事させるというものです。端的に言えば、「本格的なインフラ整備を始めた」ということです。

この天下普請には、合戦と同様の忠誠心を示さなければならないという約束があったため、大名は死に物狂いで工事に従事しなければなりませんでした。

江戸城の改修に家康からの信頼が厚い藤堂高虎を命ずるなど、大名たちの競争心をあおる戦略も取り入れた結果、入江は短期間で完全に埋め立てられました。これは現在の日比谷、新橋、浜松町にあたります。

また、この拡充工事の際、水路を東に延長して日本橋川が開かれ、のちに江戸と全国各地を結ぶ五街道(東海道、日光街道、甲州街道、奥州街道、中山道)の起点となる「日本橋」が架けられたのでした。

埋め立てられた土地には大名屋敷が次々に建設され、大名小路と呼ばれるように。大都市計画が成功を収め、東の京(みやこ)「江戸」がようやく始まった瞬間でした。

江戸から東京、400年の歴史に確立された土台

1616年(元和2年)、家康は75歳でこの世を去ります。江戸城に入ってから26年もの歳月が経っていました。

家康の死後も、江戸の町は止まることなく成長を続け、現在の東京へとつながっていきます。江戸から続く400年の歴史の中で、東京の街づくりの土台を作ったのは、この江戸時代初期・家康の時代であることは間違いありません。土地を最大限に有効活用する徳川家康は、まさに“江戸時代のデベロッパー”と言えるでしょう。

そんな土地活用の先人・徳川家康が作り上げた江戸の街は、今や世界的な大都市「東京」として大きく発展を遂げました。その姿からは、かつて家康が目にしたという荒れ果てた湿地帯は想像もできません。家康の時代に築かれた街づくりの血潮は、現在までも、これからも、脈々と受け継がれていくことでしょう。

※2019年6月17日、最新の情報に合わせて加筆修正しています

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