昔から地域にとって重要な役割を果たしてきた商店街。生活必需品をそろえる身近な場としての機能はもちろん、祭りや抽選会といった季節ごとの催事を通して、街に活気を与える役割も担っています。駅前の開発やコンビニ、大型ショッピング施設の進出などにより衰退してしまった所も少なくありませんが、近年、地域交流の場として再びスポットが当たっています。
今回は東京都内の誰もが聞いたことや訪れたことのある名物商店街の事例を参考にしながら、街の価値を高める商店街の魅力をみていきましょう。
“微笑みの街”麻布十番商店街の街づくり
東京都の中でも港区という大都市圏にあるのが「麻布十番商店街」。ここは江戸時代、仙台藩の江戸屋敷が置かれ、約300年以上も前から栄えてきた歴史ある地域です。大名屋敷の周辺には家臣の住まいが建てられ、周辺に彼らの生活を支える町人の町、庶民の町が生まれました。
1859年、商店街の南にある善福寺に初代アメリカ合衆国公使館が置かれたことをきっかけに、世界各国の大使館が集中し、外国人居住者も多く住むエリアとなりました。伝統的製法で作られる鯛焼きの「浪花家総本店」、豆菓子の専門店としてお馴染みの「豆源」など現在まで続く老舗、名店の多くは、明治〜大正時代に創業したお店です。

しかし第二次世界大戦の空襲を経て、商店街は壊滅的なダメージを受けてしまいます。戦後はバラックからの出発でしたが、見事な復興を遂げます。1960年代以降は商店街振興組合が中心となって「麻布十番納涼まつり」やお中元シーズンを狙ったセールなどのイベントを積極的に展開しました。また、商店街をもっと親しみやすく、もっと笑顔の輪を拡げようと、周辺の大使館の協力を得て、商店街の各所に「ほほえみ」をテーマにしたモニュメントを設置。その温かい心の通ったコミュニティの姿から、“微笑みの街”というキャッチフレーズも与えられました。
都電の廃止以降、長らく周辺に駅のない期間が続いていましたが、2000年代に入ってようやく、待望の麻布十番駅が完成。地下鉄・南北線と大江戸線が開通して交通手段が整ったことで、周辺住民のみならず都内各所から人が集まる街へと変化していきました。さらに隣接するエリアに六本木ヒルズができ、周辺環境は一変。それでも麻布十番商店街の情緒あふれる風景は変わることなく、都民に愛される存在であり続けました。現在でも創業100年以上の老舗からおしゃれなレストラン、カフェまで約300店舗が軒を連ねるにぎやかな商店街となっています。
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“もう一つの銀座”戸越銀座商店街の街づくり
震災や戦災からの復興で新たに作られた商店街は少なくありません。テレビ番組などでお馴染みの「戸越銀座商店街」は、そんな新たにつくられた商店街の一つです。成立は大正時代末期、それ以前から商業地としての開発が望まれていましたが、窪地であったため、ぬかるみや大水に阻まれて実現されなかった折、関東大震災が発生しました。
震災からの復興過程で「せっかくなら比較的被害の少なかった場所に商店街を作ろう」という気運が高まりました。その頃、本家の中央区銀座も震災で大きな被害を受け、道路の素材を煉瓦からアスファルトに変える、という決断をしました。その噂を聞きつけた戸越の住民が、「使わなくなった煉瓦を我が街の再生に使わせてほしい」と願い出て、商店街となる場所の道路に敷き詰めた……これが戸越“銀座”と名付けられた由来だそうです。

本家銀座と戸越は約10km弱の距離ですが、当時は自動車がまだ普及しておらず、運搬手段は人力の大八車。大量の煉瓦を積んでの移動はさぞ重労働だったことでしょう。こうして、都内にある商店街で最も長い、約1.3㎞にも渡って店舗が並ぶ、“もう一つの銀座”が作られたのでした。
戸越銀座商店街は、いち早くブランド化を進めた商店街としても知られています。商店街のロゴを作り、全ての店舗で共有。さらに店先や商品の包装紙に戸越銀座の由来を記すなど、商店街の知名度を上げる運動を起こしたのです。当時全国の商店街に広まりつつあった「一店逸品運動(各店舗がオリジナルの個性的な製品やサービスを開発、販売すること)」を積極的に推し進めたことも功を奏しました。世間では、ちょうどB級グルメが流行し始めた時代。コロッケなど庶民が親しみやすく、「商店街を散歩しながら食べられる」商品を名物とすることで、「食べ歩きの街」というイメージを浸透させることに成功したのです。
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“ともに発展する”砂町銀座商店街の街づくり
大空襲で焼け野原となった場所につくられたのは「砂町銀座商店街」。戦前から30店舗ほどの小さな商店の集まりはありましたが、商店街と呼べる規模になったのは戦後のことです。当時、運送業や町工場など零細企業が集まり、戦災からの復興を目指していた時代に、彼らの生活を支えるため、食料品や生活必需品を安価で手に入れられる場所として成立しました。

昭和50年代には砂町周辺に大規模な公団やマンションの建設が進み、人口が急激に増加。商店の数はもちろん、洋品店や雑貨店など様々な業態の店舗が参加し、バリエーションに富んだ商店街に発展していきます。メディアでも毎月10日、一斉に開催される「ばか値市」などが積極的に取り上げられ、東京一リーズナブルな商店街というイメージが浸透しました。
現在では庶民の生活を支えるだけでなく、銭湯などが残るノスタルジックな街並みが多くの観光客を惹き付けています。近年、周辺には巨大なショッピング施設ができましたが、そうした新形態の店舗を敵視するのではなく、独自の魅力を発信して“ともに発展していこう”という姿勢をとったことが成功につながりました。
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商店街によって高まる街の価値
これらの名物商店街は競争激しい都会にありながら、なぜ現在まで存続することができたのでしょうか?
「都内の中では交通アクセスが不便で、開発の手が及ばなかった」というのも一因としてあるようですが、それだけが理由ではありません。高度経済成長、バブル期など、ショッピングの近代化が商店街の存続を脅かした時期は何度もありました。しかし、イベントやブランド化など商店街を盛り上げようという地元住民のたゆまぬ努力と地道に築き上げてきた地域のネットワークによって、そうした危機を見事に乗り切っています。
商店街が一丸となって利用者に愛されるための催事を積極的に仕掛け、ブランド化、名物商品の開発などにも取り組みながら、自ら価値を高めていった。それが商店街復活の大きな理由であることは明らかです。一方で利用者にとっては、商品を安価で入手できるだけでなく、売り手と気軽に会話できることが大きな魅力となりました。機械的なやりとりではなく、心が通ったコミュニケーション。あらゆることが便利になった現代だからこそ、付加価値として評価されるようになったという証でしょう。
不動産投資をする上で、土地選びは非常に重要です。ネームバリューや観光名所など価値の高い土地は数多くありますが、地域に根付いた人と人のつながりほど尊いものはありません。昨今は特に駅から徒歩数分など、土地の価値が利便性で判断されることが多いのも事実です。しかし、そこに住む人々のたゆまぬ努力によっても、土地の価値は高めることができる。人と人とのコミュニティによって街を盛り上げることができる。そういった観点で、自分の資産、自分の土地を見直し、地域全体のあり方を見直してみることも土地活用の醍醐味のひとつではないのでしょうか。
歴史を引き継ぎ、今も盛り上がりを見せる繁盛商店街を見ることで、そのヒントが見つかるかも知れません。
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