明治から平成、その先へ。
国政を支えた近代建築のシ
ンボル「法務省旧本館」
明治から平成、その先へ。国
政を支えた近代建築のシンボ
ル「法務省旧本館」

2019.02.21

目にするものを圧倒する赤煉瓦建築の存在感、ドイツ・ネオバロック様式の荘厳な外観をまとった近代建築のシンボルが「法務省旧本館」です。

内堀通りを歩いていると、桜田門の交差点でその大きな赤煉瓦造りの建物を目にすることができます。現在の法務省が司法省と呼ばれていた1895年(明治28年)に建てられた建物。地上3階建ての巨大な赤煉瓦造りの建物が123年もの間、保存されてきたのは驚くべき事実です。

実はこの法務省旧本館。「HERO」や「相棒」、「下町ロケット」など数々の有名ドラマや映画の撮影スポットとして活用されており、普段から知らず知らずのうちに私たちはその荘厳な姿を見ています。

商業施設のような華やかな建物ではないものの、国政を支えた歴史的建造物としてその価値を受け継ぎ続ける赤煉瓦建築。一体どのような経緯で、どんな建築方法で建てられたのでしょうか? また、どのようにして今日まで現在の姿を保ってきたのでしょうか?

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政治とともに歩んだ建築の歴史

歴史は江戸幕府から明治新政府に政権が移され、ようやく体制が整ってきた明治19年にさかのぼります。明治維新後、政府は都市計画の策定を急いでいました。なにせ、それまで近代的な権力分立構造すら整っていなかったのですから、まずは首都である東京を整備し、官庁を置くところからのスタートです。新政府は欧米諸国の例にならい、官庁を首都に集中させる計画を立てました。これは日本が欧米諸国とすでに結んでしまった不平等条約を正す目的で行なわれた欧化政策、通称「鹿鳴館外交」のひとつでもあります。

時の外務大臣・井上馨(いのうえかおる)は建設局の総裁も兼務し、当時、法制度、軍事など様々な面で師事していたドイツを手本とした都市づくり「官庁集中計画」を構想しました。ドイツ帰りの建築家・松崎万長を工事部長の職に就かせ、ドイツの建築家、ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンに都市計画及び主要建造物の設計を依頼したのです。

当初は、築地から霞が関を中心に、中央駅、劇場、博覧会場、官庁街、新宮殿、国会議事堂などを配置する壮大な都市計画が思い描かれていました。

ところが、財政上の問題から計画は大幅に縮小。西南戦争後、政府は徐々に財政状況を立て直しつつありましたが、都市全体を新たに建設する財力など到底ありませんでした。さらに井上が条約改正に失敗し、外務大臣を辞任したことで、「官庁集中計画」自体が頓挫。結局、ドイツ人建築家の手による設計で実現したのは、司法省(現在の法務省旧本館)と大審院(後の最高裁判所、1974年に取り壊し)の2棟のみでした。その両名も、事業が建築局から内務省土木局に移管されたことに伴い、建物の竣工を待たずに契約解除されてしまいます。

そうした紆余曲折を経て、司法省が竣工したのは1895年(明治28年)のこと。ネオ・バロック様式の威厳あふれるたたずまいは、近代的な国家体制が整い始め、日清戦争にも勝利し、経済的にも発展しつつあった明治政府を象徴する存在となりました。

金色の突針と天然スレートが、落ち着きのある高級感を演出する

ネオ・バロック様式とは当時、ヨーロッパの国家建築で流行していた歴史主義建築(19~20世紀初頭の時期、過去の西洋の建築様式を復古的に用いた建築)のひとつで、建築の中に芸術、家具といった要素を融合させた華麗さが特徴。交差ヴォールト様式を採り入れた優雅なアーチ型の天井、屋根の四隅の装飾(突針)などにも、その影響を見ることができます。外壁は煉瓦と石、屋根は天然スレート(石を切り出したもの)を、基礎には当時、木製の樽に入れて輸送されるほど希少だったセメントを使用した、大変贅沢な造りとなっていました。まさに明治時代を物語る近代建築といえるでしょう。

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緻密な計算から生み出された堅牢な煉瓦造り

煉瓦の積み方にはイギリス積み、フランドル積みなど幾つかの方法があります。この建物ではドイツ人建築家ならではの、煉瓦の短辺側のみを外側に露出させ、整然とした印象を与える「ドイツ積み(小口積みとも)」を採用。主要な構造材となる煉瓦自体も特別なものでした。エンデとベックマンは一連の施設建造のために、大規模な煉瓦製造工場の新設を明治政府に要望したのです。

政府はこれを受け入れ、明治時代の一大経済人・渋沢栄一を社長とする「日本煉瓦製造」という会社を新設。良質な煉瓦を大量生産することに成功したのです。ちなみに、この工場で作られた煉瓦は同時期に建てられた東京駅でも使われました。

ドイツ積みが生み出す繊細なグラデーションは息をのむほどうっとりする美しさ

実はこの建物、竣工から28年後の1923年(大正12年)に発生した関東大震災で、ほとんど無傷のままだったといいます。また1945年の空襲では屋根や内装に甚大な被害を受けましたが、それでも煉瓦で作られた壁や床は大部分が残ったそうです。堅牢な造りの秘密は、独特の内部構造にありました。

壁の内側に金属製の鋼板を、壁の交点となる部分には丸鋼を、煉瓦の補強として忍ばせてあるのです。当時、建築用の鋼材はまだ珍しく、一部には鉄道用のレールも使われました。また、設計図面には詳細な施工方法までは指示されておらず、現場で判断しながら工事が行なわれました。

天井がアーチ状になっていたことも、大地震に耐えられた要因のひとつ。設計時、地震に対しては相当考慮されていたようで、当時の記録に「この赤煉瓦棟建設のために新たな地震観測所を設置した」とあるほど。煉瓦工場といい、地震観測所といい、まさに一大国家プロジェクトならではの規模と言えるでしょう。

空襲により失われたスレート屋根は終戦後の修復工事で瓦屋根に、建物自体も3階部分を取り壊して2階建てとなっていましたが、1994年に行なわれた本格的な改修工事で建設当時そのままの優美な姿を取り戻しました。

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次世代へ受け継ぐ建築の意志

激闘の時代を乗り越え、現代までその姿を保ち続ける「法務省旧本館」。その緻密な計算と建築家の妥協を許さないこだわりは、後世に受け継いでいくべき偉大な建物を生み出しました。

現在、赤煉瓦棟の内部は誰でも見学することができ、明治時代の煉瓦壁が残る部屋も見ることができます。日本の近代化に献身した明治初期の政治家、建築家たちに想いをはせてみてはいかがでしょうか?

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