美しく堅牢な建築であれ。
日本近代建築を支えた東京
駅の生みの親「辰野金吾」
美しく堅牢な建築であれ。日
本近代建築を支えた東京駅の
生みの親「辰野金吾」

2019.10.17

日本の建築史を語る上で欠かせない人物がいます。その男の名は「辰野金吾」。日本銀行や大阪市中央公会堂など、近代日本を彩った多くの名建築を手掛けた建築家です。最も知られているのは東京駅 丸の内駅舎。荘厳にして堅牢な駅舎は東京のランドマークとしてだけではなく、震災や戦災から人々を守った頼もしい存在でもありました。

その質実剛健ぶりから“辰野堅固”とも、親しみをこめて“辰野おやぢ”とも呼ばれ、その人物像は今なお語り継がれています。そう、辰野は建築設計だけではなく日本建築界を形作り、多くの弟子を輩出した教育人でもありました。彼が進んだ後に、豊かな日本の建築シーンが形成されていったのです。では、そんな辰野の足跡をたどってみましょう。

日本近代建築の夜明けに立った一人の男

辰野が生まれたのは江戸時代末期の1854年(嘉永7年)。現在の佐賀県、唐津城の城下町で育ちます。代々の下級武士でしたが勉学の誉れは高く、数え年9歳で勉学をスタート。漢文や習字を学んだ後、維新後の1870年(明治3年)には唐津藩が新設した洋学校「耐恒寮」に入学。ここで出会ったのが、後に総理大臣になる高橋是清でした。

1年後、東京に戻ることになった高橋是清を追うように、辰野も上京。耐恒寮時代に習得した英語をはじめ、欧米の学問を学んで身を立てようとしたのです。そして、志に燃える辰野青年が20歳のとき、工部省工学寮(後の工部大学校)に一期生として入学。ここで存分に建築学を学ぶことになりますが、入学時の成績はなんと最下位だったとか。名建築家の片鱗は、まだ見られません。

しかし、教師としてイギリスから来日したばかりの青年建築家との出会いが辰野の進路を大きく変えていきます。その建築家こそジョサイア・コンドル。鹿鳴館や三菱一号館といった明治新政府の建物の設計を数多く手掛けた“お雇い外国人”でした。辰野はコンドルが設計した上野博物館、開拓使物産売捌所などの建設現場で研修を受け、ダイナミックな西洋建築を体感しました。

明治27年にジョサイア・コンドルが設計し、現在は復元された三菱一号館美術館。赤煉瓦と花崗岩のコントラストは辰野金吾の代表作とも言われる東京駅を彷彿とさせる

そして、6年にわたって学んだ工部大学校を卒業。最下位で入学した辰野でしたが、熱意を持って学んだ設計技術や建築実務で高い評価を獲得し、なんと、一期生の“首席”として卒業したのです。

辰野ら各科の首席卒業者は明治政府から欧州への官費留学が命ぜられました。ロンドンで2年にわたって本場ヨーロッパの建築学をみっちりと学び、その後の1年はフランス、イタリアに遊学し、多くのダイナミックな建築物を見学しています。古典のゴシック様式、そして華々しいルネサンス期の建築を目の当たりにした辰野。彼の建築観は、この豊かな日々の中で確立されていったのでしょう。

“堅固”と“おやぢ”、2つのニックネームから浮かび上がる人物像

欧州留学から帰国した辰野は、1886年(明治19年)に帝国大学工科大学の教授として着任。それまでは「造家学」と呼ばれていた分野に新しいカリキュラムを作っていきます。その学科は「日本建築学」、科学的にアプローチする「材料構造」、そして「地震学」という科目もありました。イギリス留学の経験と知見、そして日本ならではの気候、地理的な条件をミックスして、日本で初めての「建築学」を体系化していったのです。

辰野が特にフォーカスしたのは、日本ならではの地震学でした。濃尾地震で被害を受けなかった名古屋城の石垣の曲線をヒントに煉瓦を積んだり、イタリアへ地震後の建物を視察に行ったり、辰野は耐震設計に重きを置きます。ラグジュアリーな外観だけではなく、しっかりと安全・安心な建物を設計していくこと。辰野が確立した基本コンセプトは、今なお日本の建築シーンに受け継がれていることでしょう。

日本の社会や風土に根ざした建築学を確立した辰野金吾ですが、彼には“辰野堅固”というニックネームがありました。趣味らしい趣味も持たず、建築活動と教育に尽力した明治の男。その建物も質実剛健で、堅牢。教壇でも、自身が立ち上げた建築事務所でも、そして家庭でも辺り構わず怒鳴っていたといいます。日本に建築界を確立するため、そして多くの建築物を作っていくため、時には雷親父として厳格な顔を見せなければいけなかったのかもしれません。

しかし、弟子たちはそんな辰野を“辰野おやぢ”と、敬愛の念を込めて呼んでいました。ただ当たり散らすのではなく、情け深い接し方があったのでしょう。工部大学校一期生とは義兄弟のように深い友情で結ばれていたともいいます。

彼が手がけた建物を、そんな“辰野おやぢ”のイメージで見てみたら、どうでしょう。堅牢だけど、冷たくはなく、どこか温かい。彼が好んで用いた赤煉瓦の印象も相まって、ハートフルな“おやぢ”の笑顔が浮かんでくるような気がします。

銀行やホテル、駅など人が集まる建物を多く手掛けたのは、耐震設計に重きを置きつつ、重厚感のある印象的な外観が理由かもしれない。写真は日本銀行本店

近代日本と共に歩んできた、辰野金吾の建築人生とは

辰野が手がけた建築物は数多くありますが、現存するのは25棟。北は小樽から猪苗代、東京、京都、大阪、奈良、神戸、北九州、そして韓国・ソウル……今なお愛され続ける建築物にはさまざまな様式が採用されていますが、帝大の教授を辞して建築家として活動し始めた後期には、目立った特徴が見られるようになります。赤煉瓦に白色の意匠を帯状に通し、ドームやタワーがにぎやかに林立。そのデザインは「辰野式ルネサンス」として高い評価を得ています。

辰野の建築のポイントは煉瓦を起用したこと。日本銀行本店は石造に見えますが、実は内側は煉瓦造り。そしてなんといっても、赤煉瓦と白い花崗岩のコントラストが見事な東京駅 丸の内駅舎が代表的です。殖産興業が叫ばれ、国家として経済振興に立ち向かっていた近代日本。そこに欠かせない国民一人ひとりの活力を、辰野は「煉瓦の赤色」で表現しました。辰野金吾の想い・活動は、坂の上の雲を目指し続ける日本と共にあったのです。

江戸時代の終わりに生まれ、明治の初めに建築学を学び、大正時代にかけて多くの建物を設計し、若手建築家の育成に尽力した辰野。その人生は、近代日本の歩みとシンクロしていたといっていいでしょう。

そして、21世紀――辰野金吾の墓は西新宿の常圓寺にあります。近代を駆け抜けた建築家は、現代日本を象徴する高層ビルディングに見守られ、静かに眠っているのです。

この辰野金吾の建築からインスパイアされた赤煉瓦調のアパートが「My Style vintage」です。辰野が目指した堅牢さと耐震性に優れたアパートで、セレ コーポレーションはオーナー様のアパート経営に寄り添い続けます。

 

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