一万円札の新たな顔に決まり、2021年にはNHK大河ドラマ「青天を衝け」の制作も決定。今、“近代日本経済の父”として知られる実業家・渋沢栄一に注目が集まっています。日本で初めて銀行や株式会社を作り、近代経済の発展に尽力した渋沢栄一は「論語と算盤」というキーワードを掲げ、自らの利益よりも「公益」を求めた人物としても知られています。
いかなる哲学を持ち、どんな功績を積み重ねてきた人物なのでしょうか。渋沢がたどった生涯、成し遂げた事業、そして生涯をかけて追求し続けた“渋沢イズム”にフォーカスし、渋沢栄一とその時代をひもといていきましょう。
“近代日本経済の父”渋沢栄一が生きた時代
1840年(天保11年)、渋沢栄一は武蔵国の血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で生まれます。この年はアヘン戦争が勃発し、東アジア情勢が一気に緊迫していた時代でした。欧州列強の足音が日本列島にも迫りくる幕末風雲期、彼は豪商の家系で育ちます。教養豊かな父に論語などの漢文を学び、慈悲深い母の振る舞いに社会福祉、医療の大切さを知る――後年の渋沢栄一の原点は、のどかな深谷の地にあったのです。
ペリー率いる艦隊が浦賀に「黒船」として来航した頃、栄一少年は家業である藍葉(らんよう)の買い付けを一人で行なうようになり、大人顔負けの商才を発揮していたといいます。実業家・渋沢栄一の黎明期ともいえるでしょう。
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しかし、十代の少年は苦い屈辱も味わっています。17歳の頃、岡部藩から「姫の嫁入りが近い」とのことで御用金を供出するように言い付けられ、父の代わりに出向いた栄一。500両もの大金の供出を命じられますが、「父に確認してからお返事します」と返したのです。これに腹を立てた代官が「百姓のくせに何事だ。ありがたくお受けしますだろう」と栄一を侮辱しました。この出来事で憤りを覚えた栄一は、士農工商の身分制度に矛盾を感じ始めました。この後、流行の思想「尊皇攘夷」に傾倒するきっかけにもなりますが、身分の差で民を押さえつける権力への反発、自由で伸びやかな世の中への憧れの基点になったのも確かでしょう。
その後、若さゆえの暴走から高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ちなどを画策したこともありましたが、縁あって徳川氏・御三卿の一角である一橋家に仕えることに。これが彼のブレイクスルーとなります。後に15代将軍となる一橋慶喜の弟・徳川昭武のフランス派遣に随行し、ヨーロッパで資本主義を体感することになりました。蒸気機関車に電灯、整備された上下水道のインフラ、そして銀行や株式会社という日本にはなかった経済のカタチ。来たる「明治」に向け、新しい国づくりに携わることになる渋沢は存分に見聞を広め、知見を積み重ねていきました。

1869年(明治2年)――ヨーロッパから帰国した翌年、彼の姿は主君の慶喜が籠居していた静岡にありました。彼は明治政府から借りた資金に地元豪商の出資を加え、駿府城の近くに「商法会所」を設立します。これは農家に資金を貸し出す銀行の役割、そして米や肥料などを売買する商社の機能を持ったまったく新しい組織です。いわば明治時代のスタートアップ、ベンチャーとして実業家デビューを飾った瞬間でした。
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500以上の会社を設立し、日本経済を起動した男の足跡
そして、明治維新 による文明開化・殖産興業の時代へ。明治新政府に召喚された渋沢栄一は、民部省(後の大蔵省)のトップである「租税正」に任命され、郵便制度や貨幣制度の整備、税制改革、富岡製糸場の立ち上げなど、新国家を起動する重要ミッションに次々と挑み続けました。官僚時代はわずか4年弱でしたが、実に200以上もの業務に携わっています。
もちろん、この間も民間経済を発展させ、国を豊かにしたいという彼の思いが揺らぐことはありません。30歳で発行した『立会略則(たちあいりゃくそく)』では商業の発展に重きを置くことが社会の発展をもたらす、と強く訴えています。
1873年(明治6年)、大久保利通と対立した渋沢は実業界入りを果たします。日本初の国立銀行となる第一国立銀行の設立準備を進め、ヨーロッパから最新の技術を取り入れた工場の建設にも着手。500以上の企業や600以上の公共事業に関わり、同時代に“実業寺の千手観音”と称された渋沢栄一の大活躍の始まりでした。
現在の企業名で列挙するなら、東京海上日動火災保険、王子製紙、東京ガス、清水建設、石川島播磨重工業、帝国ホテル 、サッポロビール、JR東日本、京阪電気鉄道、東洋紡……渋沢が設立に関わった企業は、まさに綺羅星のごとし。

渋沢が手がけた企業群は「欧米から新知識・新技術を持ち込んで近代経済を駆動させる企業」「近代経済のインフラになる企業」の2つに分けられます。特に、前者の典型として挙げたいのが日本煉瓦製造施設株式会社。ドイツ人技師から近代都市における煉瓦の重要性を指摘された渋沢が設立した会社で、工場は深谷に設けられました。製造された煉瓦は東京駅の丸の内駅舎 、法務省旧本館 、東宮御所(現赤坂迎賓館)に使われています。近代日本の礎の一つは、渋沢と彼の郷里が生み出していったのです。
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「論語と算盤」渋沢栄一イズムは現代に息づく
前述の通り、76歳で引退するまで多くの起業に携わった渋沢ですが、財閥や企業グループを作ることには無頓着で、その名を冠した企業といえば、現在も続く澁澤倉庫株式会社のみ。私利を追求することなく、東京養育院の監督を引き受けるなど、福祉や医療といった社会貢献に尽力し続けました。

彼の根底にあったのは「合本主義」の思想。これは、異なる能力、スキル、資産を持つ個人がそれぞれ力を出し合って事業を行なっていくべきだという考えです。こうして海運や鉄道、電力にガス、紡績、保険、ホテル、煉瓦、ビール……新しい事業を立ち上げては志を同じくする人材に任せ、自らは次なる社会課題の解決に向かいました。
論語と算盤――これは彼の経営哲学であり、今なお輝きを失わない永遠のキラーフレーズでもあります。幼い頃に父から学んだ論語は道徳であり、それは利益を生み出す経営とは矛盾しない。つまり、社会の利益になるような手段でお金を儲け、社会課題を解決すべきだと渋沢は考えていました。
これは、近年注目を集めている「社会起業家」のマインドにも通底します。2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスのグラミン銀行はその一例でしょう。日本のビジネスシーンでも社会起業家が注目を浴び、さまざまな社会課題の解決にチャレンジを続けています。
渋沢栄一が自ら実践し、立証してきたイズムは、現代にも脈々と受け継がれているのかもしれません。
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