風景を変えた「関東大震災」 都市計画史上初の区画整理が果たした東京復興事業
2019.05.16

1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分。相模湾を震源とする大地震が関東地方を襲いました。昼食時であったため、調理中のコンロから火災が発生し、東京や神奈川といった市街地へあっという間に拡大しました。東京は3日間に渡って燃え続け、日比谷、銀座、京橋、日本橋、上野、浅草、両国など中心部から下町一帯を焼き尽くしました。これが「関東大震災」です。

東京市(現東京23区に相当。以下、東京)の住宅被害は、全半壊・焼失が約16万9千棟。死者・行方不明者は合わせて10万人といわれています。木造長屋が密集した下町を中心に、42%が燃失するという未曾有の災害に、復興は絶望的かと思われました。

しかし現在の東京は、そんな凄惨な歴史を乗り越え、より発展した姿を我々に見せてくれています。東京がいかにして復興を成し遂げたのか、その歴史に迫ります。

東京の姿を一変させた震災からの復興

東京が震災によって受けたダメージは甚大なものでした。街中ががれきにまみれ、燃え盛る炎に、逃げ惑う人々。川に架かった橋は次々に焼け落ち、避難場所は家財道具を持った人々で埋め尽くされたといいます。

震災前の8月24日から9月1日までの一週間、日本には内閣総理大臣がいませんでした。厳密には、前任の第21代 加藤友三郎が急逝したのち、宮中席次で内閣総理大臣の次席であった内田康哉が代理を務めましたが、あくまでも次が決まるまでの臨時的な措置。判断を下す人間を立てるため、早急に組閣する必要があったのです。

そこで、西郷隆盛や勝海舟から薫陶を受け海軍軍人の道に進み、退役後は海軍大臣を歴任した山本権兵衛にスポットが当てられました。

翌2日、山本を内閣総理大臣とした山本内閣を組閣。すぐさま首都・東京を立て直す臨時機関「帝都復興院」を設け、その総裁に内務大臣・後藤新平を任命したのでした。

もともと、後藤は東京市政を刷新するために、市長として招かれた人物でした。震災前の東京は、明治維新による欧米の文化が根付いて落ち着き始めていたものの、衛生面や防犯面においては多くの課題を残していたのです。その頃、すでに街づくりの計画はできていましたが、震災によって全て白紙に戻されてしまいました。しかし後藤は、震災を「理想的帝都建設のための絶好の機会」と捉え、東京の「復旧」ではなく、「復興」を目指しました。

関東大震災の惨禍を後世に語り継ぐ「復興記念館」。後藤が進めた当時の大事業の歴史を学ぶことができる

直ちに後藤の下には、各方面から人員が集められ、復興計画が立てられます。都市の安全性と将来を見据えた復興計画の予算は13億円。当時の国家予算に匹敵する金額でした。

ところが、第一次世界大戦後で不景気だった日本に、それだけの予算を工面する力はありませんでした。結果、復興予算は5億7千万円まで縮小されてしまいます。

予算の縮小に後藤は頭を抱えましたが、一刻の猶予も許されない事態を悟り、12月19日、大幅に縮小された帝都復興計画案を受け入れることを決断します。

世界の都市計画史上初の区画整理

縮小したとはいえ、復興事業はまさに国家規模の大事業でした。国が主体となり、区画整理や幹線道路、橋、ガス管などの整備を行ない、その一方で、東京が主体となって、小公園や衛生施設、教育施設の整備といった事業を行ないました。

しかし、これらの計画が全て順調に進んだわけではありません。当初は、住民から土地を買い上げて、市街地を整理していく計画でしたが、予算が削られたことにより断念。代替案として住民から土地を無償で提供してもらう「区画整理」を導入することを決定します。土地を買い上げるよりも低予算で、下町の衛生や防災を解決できると考えたのです。

ところが、土地所有者や借地権者たちは、これに猛反発。地域ごとに組織をつくって反対運動を行ないます。そこで、後任の東京市長・永田秀次郎は、自ら市民に向けて、区画整理の必要性を訴えました。市長が自ら矢面に立って街を変えようとする姿勢が市民の心を動かし、区画整理を実現させたのです。震災による消失区域の約9割に相当する3,119ヘクタールの区域で行なわれた区画整理は、世界の都市計画史上、例のない大規模な改造だったといわれています。

区画整理の結果、密集した住宅地や下町の周辺一帯が整備され、安全で衛生的な市街地がつくられました。このとき整備された市街網の地図と、今日の東京の地図を照らし合わせると、首都高速道路を除いて、全く同一であることが分かります。

震災を耐え抜いた堅牢な建築物

住宅の復興も、急速に進められます。当時、日本の家屋の多くは、防火対策の施されていない木造建築が一般的でした。そのため、火災の影響を受けやすく、多くの家が焼失することとなったのです。倉などに用いられた丈夫な土蔵造りの建物もありましたが、地震の強い揺れに耐えられるものではありませんでした。このような被害から、建物の不燃化や耐震化は何よりも重要な課題だったのです。

そこで注目されたのが鉄筋コンクリート造りの建物です。住宅のみならず、木造が本来であるとされた神社でも採用されました。築地本願寺の本堂と神田明神の本殿は、このとき鉄筋コンクリート化されたのです。

他にも震災で甚大な被害を受けたあと、復興事業によって修復され、現在に至るまで残されている建築物も数多くあります。明治維新の際に建てられた神田駿河台のニコライ堂もその一つです。高さ35メートルのドーム屋根が特徴のこの建物は、日本で初めて造られた本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。震災時には、地震と火災で鐘楼とドーム屋根が崩壊し、周辺は一面、焼け野原と化しました。しかし、建築家である岡田信一郎の設計で修復され、美しい姿が復活しました。現在は、国の重要文化財に指定されています。

東銀座にある歌舞伎座は、震災当時、建築中でした。震災によって工事は一時中断しますが、やがて再開。その後も、第二次世界大戦で再び甚大な被害を受けますが、再三の建て直しを経て、今も現役の劇場として残っています。

温かみのある赤煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎。震災当時から、東京のシンボルとして街を見守り続ける

その一方で、震災にびくともしなかった建築物が、東京駅丸の内駅舎や赤坂離宮といった煉瓦造りの建物です。緻密に設計された堅牢な建物は、その鮮やかさもさることながら市民を守り抜くシェルターとしての機能も備えていたのです。そして、その姿を現代に残し、東京の顔として今もなお愛され続けています。

実に6年半もの歳月を経て、復興事業はひとまずの完成を迎えました。1930年(昭和5年)3月26日、復興事業完了を記念する式典が大々的に開催されました。震災による犠牲者の御遺骨は、現在、東京都慰霊堂に収められており、凄惨な記憶を忘れず学びに変えるため、毎年9月1日は「防災の日」に指定されています。

関東大震災をきっかけに、新しく生まれ変わった東京の街並みは、今も脈々と受け継がれています。

※2019年6月17日、最新の情報に合わせて加筆修正しています

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